陶芸

陶芸家 鈴木徹さん

陶芸家 鈴木徹さんに、陶芸家を志したきっかけ、創作のインスピレーション、今後の創作活動に対する思いを伺いました。

 
【作家略歴】

1964年 岐阜県多治見市に生まれる
1988年 京都府陶工職業訓練校成形科 修了
1991年 日本伝統工芸展入選 以降25回入選
1994年 東海伝統工芸展 入選 以降毎年入選
2001年 第32回東海伝統工芸展「東海伝統工芸賞」受賞
2003年 第50回日本伝統工芸展「新人賞」受賞
2004年 名古屋芸術大学非常勤講師(2013年まで)
2005年 第一回菊池ビエンナーレ「大賞」受賞
2009年 第3回菊池ビエンナーレ「奨励賞」受賞 
2012年 第32回伝統文化ポーラ賞「奨励賞」受賞
     平成23年度岐阜県伝統文化継承功績者顕彰
2013年 母校龍谷大学より「龍谷奨励賞」受賞
2015年 第62回日本伝統工芸展「NHK会長賞」受賞
2016年 平成27年度日本陶磁協会賞受賞
            第11回パラミタ陶芸大賞展
2017年 第64回日本伝統工芸展「緑釉鉢」宮内庁買上
(公社)日本工芸会正会員

陶芸家への道

七:岐阜県多治見市のご出身ですが、どのような子ども時代を過ごされたのですか。

3人兄弟の長男として生まれました。小さい頃は兄弟喧嘩ばかりしていましたので、母親は将来のことを真剣に心配していたようです。 喧嘩をすればいつも怒られるのは長男である私。特に父親は放任主義とは全く逆の人で、喧嘩で怒られないときでも、「勉強しろ。もっと本を読め。」など、とにかくうるさかったです。

高校時代は音楽が大好きで、ギターの練習ばかりしていたため、成績は急降下。父には毎日のように怒られました。小さい頃は父親の仕事を誇りに思っていた頃もあったのですが、この頃になると、この厳しい環境からとにかく逃げ出したかった。今思えば、あの頃は随分と心配をかけていたのだと思いますが・・。

七:厳しかったというお父様は、重要無形文化財「志野」の保持者である陶芸家・鈴木藏さんです。幼少期にお父さまの影響を受けられたことはありましたか。

小さい頃は漠然と自分は長男だから父の跡を継がなければいけないと思っていました。小学校の先生にも「徹くんは陶芸家になるんやろ?」なんて言われていましたね。そんな具合でしたから、父の仕事の内容もよくわからないまま、自分も土を練って窯を焚く仕事をするものだと思っていました。

七:高校卒業後は、岐阜を離れ、京都の大学に進学されています。

 いろいろな面で厳しい父親でしたので、高校に進学する頃には父親の跡を継ぐということは、ほとんど考えなくなりました。大学進学の際には、とにかく父親から離れたくて、地元の大学は全く受験しませんでした。歴史が好きでしたので、大学卒業後は歴史に関わる仕事ができたらな、なんて思っていました。

 大学での専攻は東洋仏教美術史でした。やはりDNAにそうした血が流れているのか、美術が好きで博物館、美術館にはよく出掛けたものです。この時、様々なものを見て廻ったことが大きな肥やしとなった気がします。

七:大学卒業後は、京都府立陶工職業訓練校に入学されています。

こうした生活を重ねるうちに、学芸員になりたいという思いが強くなり、在学中に学芸員の資格を取得しました。しかし、大学4年生のとき、恩師に「学芸員もいいが、君は陶芸をやらなくてもいいのか」といわれ、京都府立陶工職業訓練校に一度見学に行くようにいわれ、入学することに。ここでの経験がその後を変えることになりました。

訓練校で、初めて自分で土を練って、ロクロをひいて、釉薬をかけたものが窯から出てきたときの感動は、今でも鮮明に思い出すことができます。それまでは、将来陶芸をするのか分からないと思っていました。しかし、窯から出てきたものを手に取ったとき、カミナリに撃たれたような衝撃が全身に走ったのです。「これは陶芸をやらなければいけない!こんなに素晴らしいことに、何故気がつかなかったのか!」という気持ちになりました。

七:陶芸家への道をはっきりと志されることになったのですね。

はい。訓練校に通ったのは1年だけでしたが、あの1年間はそれまでの人生で最も楽しい1年でした。仲間にも恵まれ、もしあのとき入学していなかったら、今頃どうなっていたのかわかりません。紹介していただいた大学の恩師には本当に感謝しています。

もう1つ、京都時代に大きな影響を受けたことがあります。父から、陶芸をやるやらないにかかわらず、美術が好きなら絵を習えと云われ、大学2年生から訓練校の4年間、日本画の先生について、デッサンを中心に絵を習っていました。

最初はなかなか気が乗らなくて、渋々通っていたことを思い出します。ひとつのものを描き上げるまで、4時間ほど掛かっていたと思うのですが、ずっとそこに缶詰め。初めの頃、遊び放題の大学生だった私にはきつい時間でした。でも、ここで習ったことが、今凄く生きている。一つのものにじっくりと向き合う時間があったことが、今となっては本当によかったと思っています。

歳の近い先生だったのですが、こうした仕事を生業にするにあたっての心構えや、いろいろなことを学ばせて貰いました。この先生から受けた影響は大きいと思っています。親父は私に陶芸をやれとはひとことも言いませんでしたが、上手に導かれていたような気がします。

ずっとこんな具合でしたから、陶芸に魅力を感じてこの道に入ったというより、大学の恩師、訓練校の仲間たち、日本画の先生、多くの人と出会い、その度毎で導かれた気がします。小さいころから身近にあったものの素晴らしさ、凄さに回り道をしながらも、引き寄せられていったという感じです。

緑釉について

七:鈴木さんの作品は鮮やかな緑が特徴的な織部焼ですが、織部の魅力はどんなところでしょう。

織部というと、沓茶碗(くつちゃわん)に代表されるひょうげた形の茶碗や、いろいろな形の向付を想像される方が多いと思います。それまでのやきものの歴史を考えると、桃山の時代になってよくぞあれだけブッ飛んだものが出てきたものだと感心させられます。

その造形ももちろん好きなのですが、私は、いわゆる織部釉と呼ばれる釉薬、その緑色に惹かれています。ですから私は作品を制作するにあたり、織部を意識したことはありません。

七:作品名には「緑釉」と名付けられていますが、これにはどんな思いが込められていますか。

私が陶芸の道に入った当時は、やたらと織部、オリベという言葉が流行っていて、新しいことをやろうとする際には、織部の精神とか、オリベイズムだとかいって使われていました。そして陶芸の世界でも、わざとひょうげた雰囲気を作ろうとするがために奇をてらったものが溢れていました。

もちろん私の作品は、織部釉を使用しているので、織部と名付けたいところなのですが、そんな流行りや、奇をてらった作品群とは一線を画したい、もっと存在感のある力強い作品を作りたい、織部という範疇では語れないような、さらには美濃という地域を超越した作品を作りたい、との思いから、緑釉と名付けて発表しました。

森羅

七:緑釉との出会いはいつ、何だったのでしょうか?

訓練校時代、京都国立近代美術館で見た岡部嶺男の織部の鉢との出会いです。その力強さ、存在感、何もかもが叩きつけるように私の中に入ってきて、その場から離れることができませんでした。京都から帰って、創作を始めたとき、最初に頭に浮かんだのがこの鉢でした。あんな雰囲気の作品を作りたい。そんな流れから織部釉の緑の模索が始りました。

七:大きな壁にぶつかったことはありますか?

壁は何度でもぶつかりましたし、今も大きな壁にぶつかっていて、それをなかなか超えられません。

私の作品は、基本的に緑釉を使用したものなのですが、いつも同じではなくいろいろな技法や表現方法で作風を変えてきました。最初は釉薬を塗り分けた二彩シリーズ、ベニヤ板を割って使用する櫛目のシリーズ、泥を勢いよく塗り付けた泥刷毛目のシリーズ、そして今は萌生のシリーズを続けています。

いつも次の展開を考える際が一番苦しい。新しい技法を思いついて展開し始めても、次はどうしようかといつも考えています。何かを思いついて始めてみても、そうそう簡単にはいかないものです。いくつか試みを繰り返してみるうち、そのうちの一つがなんとかものになってくるものです。

七:(Instagramを拝見しましたが)近年の作品は釉の雰囲気が少し変わった印象があります。

インスタはポートフォリオになれば良いかなと思って、過去の作品から現在の作品までをアップしています。

緑を中心に作品を展開していますが、個展で作品を並べる際、緑ばっかりになってしまうと面白くない。変化を加えたくて、少しですが、藍緑釉や灰釉、黄瀬戸などを加えています。

これからも緑釉が中心になると思いますが、サイドワークとしての釉薬の研究も続けなければならない必要性を強く感じています。もしかしたら緑釉を凌駕してしまうような、そんな存在感のある新しい仕事ができたら、という思いもあります。

七:作品のインスピレーションはどこから?

学生時代に美術館、博物館を廻っていろいろなものを見たことは、本当によい経験になったと思っています。昨年の個展で発表した青銅器のシリーズは、学生のときに京都の泉屋博古館で見たものからきています。

今でも、様々なな展覧会を見てヒントを貰っています。その他、今ではスマホで簡単に写真として残せるので、雑誌や新聞の写真、街中の広告とか、面白いなと思ったら、すぐに撮影して残しています。全て資料として保管しているのですが、これらをボーっと眺めていると、ひらめいてスケッチしてみるということをしています。

伝統工芸展について

七:伝統工芸展に出品するようになったのはいつごろ、またきっかけは何だったのでしょう。

初めての出品は確か28歳のころ、第38回展でした。父が大きく関わる展覧会でしたので、七光りといわれるのが嫌で出展を悩んでいた時期もあったのですが、自分の作る作品に合っているのは、やはり日本伝統工芸展かなという思いは強くありました。

七:伝統工芸展では、例年素晴らしい実績を残しておられます。公募展に出品し続けることについてどのようにお考えですか?

伝統工芸展は、例年7月の中旬が締切なのですが、その搬入を終えた時から、来年はどうしようかと考えています。出品を始めてもうすぐ30年になりますが、このように自分を追い込まなければいけない機会があるから、少しずつではあるけれども作家として成長してくることができたと思っています。

そして、同じく出品を続ける全国の仲間に巡り合えたこと、同じように入選、受賞を目指す仲間の存在、これほどモチベーションを高めてくれるものはありません。まさに切磋琢磨。ここに所属する仲間が皆同じことを考えていると思います。なかなか自分だけでは追い込めないし、皆と喜びを分かち合えることもない。出品し続けることの意義はそこにあると思います。

七:公募展に出品し始めた頃と現在とでは、どんな変化がありましたか?

出品し始めた頃は何もかもが新鮮でした。展覧会会場に行けば雑誌などで知っている作家の人たちが居て、こうした先輩たちと触れ合えることがとにかく嬉しかったし、楽しかった。また、自分の作品が図録に載ったことも嬉しかったです。

30年近くも出品していると、伝統工芸展を取り巻く環境も大きく変わり、私自身の伝統工芸展への関わり方も変わってきました。計らずも日本工芸会東海支副幹事長などという立場に押し上げられて、会の運営について色々と考えなければいけない立場になってしまいました。それまでは出品する作品のことだけ考えていればよかったのですが、展覧会の運営について、会の今後のあり方について考えなければならない立場になってしまいました。

とはいえ、ここに出品する仲間がいたからここまで来ることが出来たことは間違いないと思います。出品し始めたころの新鮮な気持ちを忘れず、毎年自分を追い込んで少しでもよい作品を発表し続けなければならないと思っています。 

個展について

七:個展について聞かせてください。

ここのところ1年に2~3回のペースで個展をしています。初めての個展の準備をしているときに、売ろうとしたらダメだと父親に言われました。売れる作品を考えて媚びた展覧会になるより、1点も売れなくても作品に厳しさがあることの方が重要だと。

私は作品ひとつひとつが、見るものに何かを訴えるような緊張感のある個展をつくりたいと思っています。どの作品をとっても、何かしら思いがあります。ただなんとなく作ってみましたではなく、それぞれに込めた思いがあります。個展はその思いをぶつける場だと思っています。 

緑釉花器

陶芸全般について

七:陶芸を続けてきて良かったと思うとき、逆に辛いなと思われるときがあれば教えてください。

私の作品を気に入ってもらえるとき、これをください。と買っていただけるとき、こんなに嬉しいことはありません。

そして公募展で賞を貰えたとき。特に2015年の日本伝統工芸展でNHK会長賞を貰ったときは、本当に嬉しかった。それまで色々なことがあり、実はどん底だったので、飛び上がる程嬉しかったのを覚えています。

うまくいっている時は何をやってもうまくいくのですが、その逆の方が多いかもしれない。作っても作っても思うようにいかず、苦しみばかりが増していく、悪循環なときがあります。こんな悪循環を繰り返す中から出てきた作品に賞がつくと、全てが報われた気がします。

2015年にNHK会長賞をもらって、その次の年に日本陶磁協会賞をもらいました。このときはもう何をやってもうまくいって楽しかった。でも、やはりここ数年は次への展開に向けてなかなか思うように行かないことばかりで、苦しく感じる時が多いです。よいときと悪いとき、ずっとこの繰り返しなのだと思います。

七:今後挑戦してみたいことはありますか?

5年ほど前になりますが、「何か好きなことやって作品を並べてよ。」とお願いされたことがあります。池に私のための浮島が用意され、そこに萌出る生命感を表現した作品群を並べました。マケットを作って、どう配置するのかを考えたり、その過程は楽しかったですし、様々な勉強をさせて貰いました。またどこかでこんな仕事がやらせてもらえたらなぁと思っています。

七:これから陶芸の道を歩もうとする若い世代にメッセージがあれば教えてください。

以前、10年ほど、名古屋芸術大学で講師をしていました。若い子たちに陶芸を教えるなんて初めてのことで、最初はどうしていいのか分かりませんでしたが、割と向いているところもあったようで、結構楽しんでやってました。その子たちにいつも言っていたことは、兎に角いろんなものを見ること、そのためには博物館、美術館に通いなさいと。どんな天才でも無からは何も生まれませんから。

七:ありがとうございました。